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 第一印象は、すごく、キレイなひと。
 きらきらしてて、銀色の髪が光ってて、うつくしい顔立ちがにこりと微笑んだ。
 だから、迷わずその手を取って、言ったのだ。
「おおきくなったら、ぼくと結婚してください!」
 ぱち、ぱちと瞬いたひとが、花開くように笑う。
 うわあ、と眼を見開いて。なんて、きれい。
 だけれど緩やかに歪められた口元に、背中を何か滑り落ちていった気がしてティル・マクドール御年六歳はかくり、と首を傾げた。






















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 同盟軍盟主だというリオウに連れられて訪れた城は、活気と喧騒に満ちてティルに郷愁の念を覚えさせた。
 人の行き交う空気、雑然として奥底にぴんと張られた糸のような鋭さが残るそれは、まさしく湖の城でティルの日常だったもの。
 正直、戦争にはもう関わりたくない。だが同じようでいて違う運命を切り開いてゆくリオウの先を見てみたいと思った。紋章の呪いに、リオウはどう戦うのか。彼の真っ直ぐで強い視線はティルが忘れていた何かを思い出させてくれそうだった。
 それで自分の何が変わる訳でもないと分かっていたけれど。

 だけど、と思わせる何かが、リオウにあった。それは強さなのか。分からない。ティルは目を細めて、前を行く背中を見た。
 大広間に入ると軍主の帰還に気づいた兵達がざわりと揺れる。
 お帰りなさい、と口々に掛けられる声は、ティルの胸を温かくした。
 リオウの姿に顔を緩ませた人々、その中で幾人か、背後を歩くティルの顔を見て目を見開いた。
 ああ気付かれたか、と思う。
 喜色を浮かべるのはトランから派遣されたという義勇軍だろう。笑顔を浮かべられても、ティルは返すものを持っていない。それが申し訳なくも、どこか嬉しい。
 だがはっきりと敵意を持って睨み付けられて、都市同盟の人間がよく自分の顔を知っていたものだと驚いた。どこかで予想していたからか、すとん、と冷たい視線は胸に落ちた。眼差しは語る。トランの英雄が、何故ここにいるのかと。
 彼の視線に気付いた周囲が、波打つように騒然としてゆく。
「トランの英雄だって?」
「あれが?」
「何をしにきたんだ……?」
「死神だって噂だしな、戦争の臭いを嗅ぎ付けてきたんじゃないか」
 ざわざわ、ざわ。
 空気がおかしいことに気付いたのか、リオウが足を止める。同行していた彼の姉は、向けられる冷え切った感情におろおろと視線をさまよわせた。「どうして?」と泣き出しそうに呟く。人のいい姉弟だ。
 残念ながら、今更その程度で傷つくような神経は持ち合わせていない。ティルはため息を吐いて、リオウを促そうとした。

「礼儀がなっていないね」
 涼やかな声が、広間にわあんと反響した。
 困惑していたリオウが、ぱっと顔を輝かせる。
「ファルさん!」
 リオウは上を見上げている。……上?
 ティルが怪訝に思うのと同時、ひらりと銀色が舞った。
 だぁん、と音を立てて着地した青年は、乱れた服をさっと整える。ティルは呆然と目を見開いた。今、どこから降ってきたこの男。
「ごめんねリオウ、不愉快な発言を聞いたものだから我慢が出来なくなってね」
 ふふ、と笑う青年は立ち姿も優雅だ。
 澄んだ水色の瞳がティルを捉え、柔らかに細められる。
 ティルの記憶の琴線を、何かが揺らした。この眼差しを、知っている。怜悧な美貌を、見たことがある。それは、

 ────かつて父に連れられて訪れた南国の国で、出会った、王子様。

 余計なことまでしっかり付随して湧き上がった記憶に、ティルは呻いた。
「初めまして。私はファルーシュ、君は?」
 だから続けられた声に落胆したなんて、そんな筈はない。






















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 ファルーシュが覚えていないなら、それは僥倖。
 とばかりに過去の思い出から逃避することを決めたティルにとって、この状況は非常に、不本意だった。
「あんた、何でついて来るんだ」
「リオウ君に君の事を任されたからでしょう」

 軍師に目通りし、それはもう嫌な顔をされながらも、同盟軍ではなくリオウに手を貸すのだと明言し滞在を許されたティルは、一応立場なぞ考えてひっそり目立たないよう過ごすつもりだったのだ。
 なのに、である。
 何の因果か同盟軍に滞在していたファレナの王兄がにこにこ笑顔で隣を歩いている。理由は分かっている。リオウが、城に慣れない自分の為に頼んでくれたからだ。好意はくすぐったくもありがたい。
 だが。
 ファルーシュの顔はとても目立つ。今も女の子達の羨望の眼差しが突き刺さる勢いだ。そんな人物の横にいれば、自然とティルも目立つ。
「私の存在は、迷惑かい?」
 それを察したファルーシュに、悲しげに目を伏せられればどうしようもなく罪悪感が募って何も言えなくなるのだから、尚更、不本意であった。






















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 成り行きで故郷に帰還したといっても、居辛いことに変わりはなく。
 ティルは泣いて引き止めるグレミオに会いに時折グレッグミンスターを訪れるものの、普段は同盟軍の本拠地に滞在していた。最初は近くの町に宿を求めようかと思っていたのだが、リオウとナナミ二人がかりで反対されたのである。あの眼差しに勝てる者がいるなら人じゃない、とティルは早々に諦めた。
 軍に属していない分暇な所為か(きっとそうだ)、リオウが外出する時はよく戦闘メンバーに誘われる。黙々と護衛を務めるからか、険悪な視線は徐々に減りつつあった。
 つまり割と平穏に毎日が過ぎていたのだ、今日までは。

「なんであんたがここにいるんだよ……」
 怒鳴る元気もないティルの、隣におわすはファルーシュ・ファレナス。ちなみにここはティルに割り当てられた部屋のティルのベッドである。
 シーツに広がる白銀の髪が朝陽にきらめき、質素な部屋に不釣合いな輝きを見せている。伏せられた睫まできらきらしていた。
 寝起きにこの顔をアップで見せられた自分の立場にもなって欲しい。項垂れたティルの心中も知らず、ファルーシュはすよすよと眠り続けていた。






















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「ティル、ティール。ごめんってば」
 機嫌を伺うようにファルーシュが顔を覗き込んでくる。
 それすらも鬱陶しくて、ティルは顔を背けた。ティル、と再度呼ばれる。低い声で柔らかなタッチで紡がれる名前。
「ティルー」
 ファルーシュの情けない顔を視界から追い出しながら、ティルは顔をしかめた。


 ティルは十六で成長が止まった。ファルーシュは、普通に過ごしてきた。
 理屈は分かる。分かっている。だが納得できないことはあるのだ。
 出会い頭にぶつけた拍子に、切ってしまった唇が痛む。
 何より痛むのは、ぶつけた場所がファルーシュの肩だと理解した瞬間の、自分のプライドだ。






















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「綺麗ですよねー」
「リオウか。ああ、あいつ自分の顔自覚してるんだと思うか?」
「まあ王族ですから、利用出来るものはするでしょう……って、違いますよ。僕が言ってるのは、マクドールさんといる時のファルさんの顔です。そりゃあもう、きらきら八割増し! って感じですよ」
「……何それ」
「よっぽど気に入られてるんですねー、いっつも凄い笑顔ですよ」
「…………いや、気の所為だ。覚えてるはずないじゃないか」
「何の話か知りませんけど、マクドールさんが知ってるはずないんですよ。だってマクドールさんがいない時の顔なんて、見れないでしょ?」
「………………」
「だから今度会ったら見てみてくださいね、その八割減が普段の顔ですから」






















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 リオウは、明るい。
 城中に慕われる彼はいっそ天真爛漫だと言える程に、無邪気に思える。だがその目の奥底に宿る意思に、一体どれだけの人間が気付いているだろう。
 あれは、覇者の眼だ。
 軍師は、シュウは、あの目に魅せられて彼を軍主へと押し上げたのだろうか。
「どう思う」
 軽く問いかけた旧友は腕を組んだまま石版にもたれかかり、ふんと鼻を鳴らした。
「僕が知るか」
「レックナート様の弟子だろ、ルック」
「僕はそのレックナート様に言われてここにいるだけさ」
 素っ気無く言って、ルックは眼を閉じてしまう。話は終わり、と言いたいのか。
 詰まらない。
 不機嫌になったティルに、ルックは億劫げに息を吐いた。
「軍主は自分の足で歩いてる。あんたは自分の心配したらどう」
「どういう意味?」
「あんたの背後に近寄ってる奴の話だよ」
 振り返ろうと、して。
「何の話だい? ティル」
 耳元に、声を吹き込まれた。
 声もなく総毛だったティルを呆れたように見つめたルックは鼻を鳴らして吐き捨てた。
「だから言ったろ、自分の心配しろってさ」
 恨めしげにルックを見上げたティルの横で、ファルーシュが楽しそうに笑っている。






















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 さああああ、と静かに音が散る。
 雨の気配だ。

 雨が降ると、雨が降ると────。
 ゆらゆらと、まどろみの中をたゆたいながら、ティルはぼんやりと記憶の海に沈む。
 雨が降ると、グレミオが大慌てで洗濯物を取り込んで、パーンがそれを見て笑っていた。笑ってないで手伝ってください、とグレミオが怒り、パーンが不器用に畳み始める。だけど結局しわくちゃなままで、グレミオがそのいかつい手から取り上げた服を、手際よく畳んでゆく。
 クレオが走ってきて、グレミオに鍋が焦げ付いてる、と叫ぶ。グレミオが大慌てで台所に走っていって、それから。
 それから、テッドが裏口から駆け込んでくるのだ。にっかと笑って、ティル、雨に降られちまった、とびしょ濡れのままで。
 グレミオが着替えを出して、テッドが礼を言いながら着替えて、あったかいホットミルクを出してもらう。
 二人でふうふう冷ましながら飲んだ、蜂蜜入りのホットミルク。

 グレミオと崩れ行く赤月帝国を後にして、行く当てもなくさ迷っていた頃。
 雨が降ると、グレミオは慌てて雨具を取り出してティルに被せ、木陰に駆け込んだ。しんと冷え行く空気を、降り注ぐ雨を二人で、黙って見つめる。
 そして雨が止む頃になると、グレミオは笑って言うのだ。
「坊ちゃん、今夜の宿では、ホットミルクを頼みましょうね。あったまらないと風邪引いちゃいますから」


 グレミオをグレッグミンスターに追い返してから、何度も雨に降られたけれど。
 その度にホットミルクの甘い味を思い出して、口の中がしょっぱくなった。
 雨が降ると、思い出す。
 克明に鮮明に、蘇ってくる記憶が、記憶でしかないことが、現実を突きつけてきて。ティルはどうしようもなく。
 どうしようもなく、苦しかった。
 普段は心の奥底にしまいこんである闇が溢れ出す。
 歯を食いしばってこみ上げてくるものを飲み込んだ。自分を哀れむなんて真っ平御免だ。だけどこの右手が喰らった命を、どうしたらいい。
 雨の日だけは、と言い訳して、ティルは行く先を見失う。


 ざああ、あああ。
 雨脚が強くなる。
 ティルはふと思った。雨の匂いがしない。
 木陰で雨宿りをしているのではなかったか。
 噎せ返るような土の草の生々しい匂いがない。
 僕はどこにいるのだろう。

 見失ったものが多すぎて、立ち尽くすティルに、ただ雨の音だけが降り注ぐ。

 何かに呼ばれた気がして目を開くと、ファルーシュが眉を寄せて覗き込んでいた。
「ああよかった。魘されていたから、起こしたんだけど」
 見回すと石造りの壁があった。灰色の壁の外で、雨がざあざあと降っている。
 リオウの城に、いたのだった。
 思い出して、ティルは口元を歪めた。笑おうとして、笑い声は喉に引っかかって掠れた音を立てた。
 見失ったと思った何かが、足元にあったような。
 ひどく無様で滑稽だと思いながら、さらりと揺れる銀色の髪を見ながら、ティルは笑った。






















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 何かがおかしい、とティルは思った。
 やけにちらちらちらちら、銀色が目に付くのだ。
 顔を顰めつつパンを咀嚼するティルに、シーナが呆れたようにため息をついた。
「そんな顔して飯食うなよ、こっちまで気が滅入ってくるだろ」
「ああ……」
 悪いと言いつつ、ティルはマーマレードをつけすぎたパンを口に突っ込み噎せ返った。
「何やってんだよ……」
 心底呆れたようなシーナの視線にも、返事が出来ない。だってティル自身、自分の状況が分からないのである。
 取り敢えず今朝はやけにファルーシュをよく見る、と思っていたところで、肩に手を置かれた。
「隣、いいかい?」
 その声が考えていた人物だったものだから、動揺して手からパンが滑り落ちる。
 ファルーシュはさっさと隣の席に着き、持っていたトレイをテーブルに置く。骨ばっていても綺麗な手が、パンを上品に掴む。
 意外と、大きな手だった。
 ファルーシュのパーツをまじまじと見るのは初めてかもしれない。
 身長差があるから当然かもしれないが、ファルーシュはティルよりも完成された体格をしている。服がゆったりとしているのでそうは見えないが、筋肉もきっちりついているだろう。あの手は、武術をやっている手だ。
 羨ましい、と思ったところで、ティルは自覚した。ファルーシュを凝視するなんて、何をやっているのだ。
 取り落としたパンを口に押し込み、勢いよく呷ったコーヒーはまだ熱く、飲み込むことも出来ずにティルは硬直した。
 シーナの視線がひたすら痛かった。






















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「ティル、ティール」
「何の用だ。僕の名前を伸ばすな鬱陶しい」
「雨が降ってるから、寂しくなったんだよ」
 微笑むファルーシュに、ティルは眉を跳ね上げた。
 ファルーシュには、魘されているところを見られている。気を使われたのだろうか。今の気分ではそれすら余計なお世話だと怒鳴りそうで、ティルは口を噤んだ。
「ああ、違うよティル。誤解しないで」
 ファルーシュはまた微笑んだ。らしくなく、力のない笑みだった。
「ファレナでは雨はあんまり降らないんだ」
 覚えている。太陽が、青空が高くとてもうつくしかった。
「曇った空は、とても寂しい」
 そう言ってファルーシュはティルの後ろに座り込み、背中をくっつけてきた。
「ティル、ティール。寂しい私を放り出さないで」
 背中にかかる重みが温かい。今一番欲しくなくて、でも本当は何よりも望んだ、温もりだった。ティルは小さく毒づいた。
 ぐい、と背中にもたれかかってやる。ファルーシュの笑う声が聞こえた。
「僕は寝る」
「うん、お休み。私も寝ようかな。起きたらきっと晴れてるよ」






















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「僕は見てるよ」
 風使いはぽつりと呟いた。
「僕は、見てる」

 戦争か、歴史か、それとも人の行く末か。
 問いかけてティルはやめた。答えは返らないだろうと思ったし、いつか自分で探し出せる気もした。
「そっか」
「そう。だからあんたのことも見てるよ」
 ティル、と言ってルックは口角を引き上げ微かに笑ってみせた。


「……そういえばあの銀髪と一緒にいないなんて珍しいね」
「そーゆうのは見なくていい」
「だったら目の前で引っ付くのはやめてくれる?」
「僕がどうこう出来るならとっくにしてるよ……」






















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 足を踏み入れるとそこは修羅場でした。
 なんてフレーズが頭に浮かび消えてゆく。
 ティルはらしくもなく唖然として、目の前の光景を見た。

 酒場の騒然とした空気は、重苦しいほどの沈黙に支配されていた。
 殴られた男、その前に立つファルーシュ。
 横顔から覗く眼差しは凍りつきそうなほど冷え切っていた。
「私は忠告したよね。礼儀がなってないことをするもんじゃないよ、って」
 何が起きたのかさっぱり分からないティルを、扉近くに避難していたフリックが手招きする。ぴんと張り詰めた緊張を壊さぬよう静かに近寄ったティルに、フリックは早口で囁いた。
「お前の悪口言ってたんだよ、あの男」
 悪口って言うより、貶めるってほうが正しいかもな、とフリックは吐き捨てた。気分が悪い、と言う表情を隠しもしない彼は、まっすぐなままだ。

 ふ、とファルーシュが振り返る。
 ティルは一瞬息を呑んだ。
「来てたんだ」
 ふわり、と、雪解けのように微笑んだファルーシュに、凍り付いていた時間が動き出す。騒然とし始めた室内を放置して、ファルーシュは大股で歩いてきた。
「見てたの? ごめん、怖がらせちゃったね」
 微笑む彼はいつも通りで、ティルは安堵した。
 ファルーシュは背後を振り返り、「二度目はないよ?」と鋭い一瞥をくれ、もう興味をなくしたというようにティルの手を取って酒場から出てゆく。
 ティルは抵抗も出来ずそのまま着いていった。ひらひらと手を振るフリックの口の動きが、後は任せろ、と言っていた。


「ファル……」
 早足で歩いていたファルーシュは、外に出ると大きく息を吐いて掴んだ腕を放す。
「原因聞いたのかな。勝手なことをした、ごめんね」
「いや……僕の為なんだろう? 感謝する」
 でも暴力はよくないぞ、とティルは小さく付け加えた。
「ああ、うん、頭に血が上ったんだ。気をつけるよ」
 ファルーシュは振り返らない。
 唐突に、顔が見たいと思った。
「ファル……ファルーシュ」
 呼びかけると、意図に気付いたのかゆるり、振り返る。端正な顔には苦笑が浮かんでいた。
 今まで見たどの笑みよりも綺麗だと思ったのは、何故なのだろうか。






















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 右手を掲げる。
 手袋の下に隠した、紋章を見上げる。
「マクドールさん、何してるんですか?」
 朗らかな声に、手を下ろして微笑んだ。
「何だろうな」
「何ですか、それ」
 ぷ、と噴き出したリオウは汗みずくである。
「お暇だったら僕と鍛錬しませんか? 丁度修練場が空いてるんですよ」
「いいけど、見世物は勘弁だよ」
「大丈夫です、カミューとマイクロトフしかいません」
「それマチルダの騎士だよね……大物じゃないか」
 うんざりした声を返しながら、足はリオウの後をついてゆく。
 焦げ茶の髪が日に透けて、暖かな色合いを醸し出している。
「もうすぐ、決戦ですから」
 リオウはそう言って、トンファーをぶんぶん振り回す。毎日の積み重ねがいざって時に出ますからね、と振り返って笑う。それをティルは目を細めてみた。
 押し潰されずに歩く力強さが、眩しかった。

「あ、ファルさんもティルさんの勇姿を見に来るそうですよー」
「あいついつも僕と一緒にPT入りしてるよな!?」


たとえばもっと幼かったなら

→僕らは違う道を歩んでいたのだろうか




















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 ティルはのた打ち回っていた。
 悪態をつき頭を掻き毟るが眼に焼きついた光景は消えてくれない。
 見知らぬ女性に、微笑むファルーシュ。
 思い出すだに軋む胸が、引きつる喉が、湧き上がる苛立ちが指し示すことなど一つしかないではないか!
 ティルは即座に理解出来るほどに聡く、故に認められないでいた。
 それはアイデンティティを常識を意地を脅かすものなのだ。
 だけれど煩悶する自分自身が既に、証明してしまっている。

 ああ、ああ、本当に────






















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「おおきくなったら、ぼくと結婚してください!」

 ……と、言ってくれただろうティル」
 目の前にはにこやかに煌びやかに微笑むファルーシュ。背後には壁。
 きらめく奴の後ろには、ハンケチで涙を拭き拭き「ぼ、坊ちゃんが、グレミオが大切にお育てした坊ちゃんが、お嫁にゆかれる時がああ」と花嫁の父を体現している己の従者。
 いったい何の冗談だ。
 知らず顔を引きつらせたティルに、ファルーシュは神々しい笑みを浮かべる。
「君が自覚してくれたら、約束を果たそうと思っていたんだ」
「てか覚えてたのかよ!」
「覚えてたのか思い出したのかなんて、大して重要じゃないだろう?」
 隙あらば逃げんと背後を伺ったティルに、ファルーシュは笑みを深くする。ぞっと背を戦慄かせたティルは慌てて言い募った。
「ちょ、あんた、六歳のガキの口約束を」
「ふふ、私にはこの『ティル・マクドール拇印入り誓約書・母上(時のファレナ女王陛下)サイン付き』がある。証拠は十分だ、観念なさい」
 ばばん、と取り出したるはまさしく誓約書。出会い頭の過ちに、あらあら微笑ましいと悪ノリしたアルシュタート様がその場でテオ・マクドールを巻き込み作らせたものである。その時は純粋に嬉しかった、あまじょっぱくてちょっぴり恥ずかしちっちゃい頃の思い出、で終わるはずだったブツをずずいと突きつけられてティルは呻いた。何でこんなものご大層に保管してやがるんだコノヤロウ。
 というか、ティルは自覚してしまったのだ。大変不本意ながら、この胸に巣食う感情を。今更ながらに思い出し、頬にかっと熱が上る。
 ファルーシュの怜悧な目元がすうと細められ、あまやかに笑む。
 ひぃ、とティルは心中悲鳴を上げた。何に対してなのか、それすらティルには分からなかった。つまりはぐるぐるして精一杯だった。色々。
「私はね、ティル。一度目をつけたら逃がさないんだよ。利用出来るものは、何だってする、ね?」
 吐息が近づく。
 あわわわわわわ、とティルは慌てふためいた。自覚したばっかりで初恋リターンズでオマケに片思い気分とか満喫していた身には展開が早すぎる。幼い頃の初恋を後生大事に温めていたティルはぶっちゃけウブだった。世慣れた親友も色恋沙汰のいろはなどティルには教えてくれなかった。いい年こいて悪戯三昧だったのだからテッドの精神年齢もまあ……ってそれはいい。その後まもなく戦争に関わり、過酷な運命に翻弄されて気が付けばそちらの方面には関わらず終い。経験値なんてある訳もなく。うかうか桃色妄想する暇もなかったのだから、ある意味純粋培養されている。いやいや待て待って待ってください! と絶叫した。
 混乱MAXなティルを察したのか、ふわりと口元を緩めたファルーシュは苦笑して少し顔を引く。
「ああ、ファレナは女王陛下を除き同性婚を認める法律を可決したから結婚の心配はいらないよ」
 慰めにしては方向性がずれすぎじゃあるまいか。
 一気に脱力するティル。知らず詰めていた息が凄い勢いで抜けていった。一気に緊張が緩和された足が震えている。だがここでへたり込むようなみっともない姿を見せてたまるものか、とティルは奮起した。ところでファルーシュのアサッテな台詞を反芻する。そして更に脱力した。
 つかそもそも、そんな心配していない。
 ファルーシュとの意思疎通に立ちはだかる壁を見たティルであった。というか段階的に進んでくれお願いします。
「王位継承者を無闇に増やすとアレだし、私の使い道なんて正直他国との縁組くらいしかないからねぇ。むしろトランの英雄を娶るとは素晴らしい、その資質を幼い頃に見抜くなんて流石です! とか賛美されちゃった」
 しかもまさかの国内歓迎ムード。
 ええーマジでかファレナ、とティルは一瞬引いた。
 グレミオの涙は既に、「坊ちゃんは幼い頃からご立派でいらして……あああれはグレミオの名を初めて呼んでくださった時……」と長い回想 兼 語りに入っている。
「だから、ね。ティル、私と結婚してください」
 そ、と指を取られ口付けられる。
 真摯な瞳の中にはどこか確信めいた光が宿っていて……
 どこかで見たことあるぞ、とティルの頭の片隅、冷静な部分が囁いた。

 ────ティルがファルーシュを意識した、些細なきっかけ。何気ない接触、台詞。ティルがうろたえる瞬間に、ファルーシュはこの光を浮かべなかったか。

 浮かび上がる記憶のカケラが、パズルのようにはまってゆく。
 も し か し て。
 導き出した結論にティルは絶句した。もしかしなくとも。
「あんた、確信犯だなアアァァァ!?」
 涙混じりの絶叫が屋敷に木霊した。


約束


だけどなんでか手を振り解けなくて、それが一番悔しかったんだ!


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